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  大野川のこと         大野川の舟運の歴史

NPO法人河童倶楽部事務局長 幸野敏治


高千穂を源流とする大谷川が荻町白水の滝と合流し、大野川の本流は、竹田で玉来川・稲葉川・濁淵川と、三重町と千歳町の境の岩戸で白山川の流れを吸収した奥岳川と、沈墮の滝の上流で緒方川と、細長橋の下流でで三重川と合流し、犬江釜峡を流れ吐合で野津川と、犬飼では茜川、芝北川と、殆どの大野川流域の支流の流れを集めて犬飼から河口、鶴崎で別府湾に注いでいる。
 各所で富裕な土地を形成し、特に犬飼の下流戸次からは広大な沖積平野を形成して大分川とともに大分平野となる。高地では大野川とその支流から長大な井路が建設され、どこでも農耕が可能となっていて、「母なる川」の所以である。
 また、参勤交代がはじまってから、この地の道路、通舟の発達を見る。特に犬飼はその要所となり発展した。(道路では10号線と57号線の接点で宮崎−大分と熊本−大分の交通の合流点で、また稲葉藩と岡藩の接するところ)
 

大野川通舟の時代は、流域の人達が最も大野川に接した時代である。それは自然に挑戦し克服して流域の夢を描いた時代である。自然との共生が叫ばれている今日とは、そのロマンの求めかたが相反するものであろうが、大野川を知る上で、また歴史とその時代時代の人々の期待するものを確かめる上で、大野川通舟の歴史を知る事は非常に興味深いものがある。 

1.竹田からの大野川通舟

大野川に舟が行き来したのは犬飼から鶴崎までだとほとんどの人が思っているが、竹田から確かに舟は出ていたのである。但しそれは明治時代になってからのことである。

  江戸時代、竹田の中川公が江戸に参勤の際通る道筋は二つあった。一つは竹田、三宅、志賀、深山、大野原、犬山、三ツ木、新殿、犬飼、ここから川舟で大野川河口の鶴崎三佐まで。犬飼には藩公の御茶屋があり、明暦2年には御蔵所が建ち、年貢米、大豆等を収めて江戸、大阪に廻送する基点となった。
   もう一つは沈墮廻り。滑瀬から片ケ瀬小宛を経て緒方を通って沈堕で大野川を渡り沢田、木浦畑、片島山の根を迂廻し原田に出て、柴原から犬飼に着く。
 どちらの道を通っても丘を越え谷を渉る難路であり、交通運輸はすべて、徒歩、人肩、牛背馬背によらざるを得なかった。当然のことながら岡藩は大野川に舟を通すことを熱望したのであるが、地形的な理由と政治的な理由で実現できなかった。

竹田、朝地、緒方、菅尾を流れる大野川は地形の厳しいところを流れ、今でも裏川と呼ばれている。特に朝地のコウモリの滝から猿飛橋、沈堕の滝、細長の上流の峡谷は舟を通すには厳しい場所である。犬飼の吐合から下流は川幅が広がり、海へ向かって緩やかに流れる。それゆえ、大野川通舟は、細長から上流に見るべきものはなかった。
 ところが犬飼から
清川村岩戸までは材木いかだは実際に流されていたし、小さな舟なら十分通り得たのに、通舟が行われなかったのは、地形障害の外に政治的理由があったようである。

大友義統(よしむね)が朝鮮役従軍の際、苦戦の小西行長を援けなかっとの理由をで秀吉の怒りをかい、所領豊後を没収された後、大友氏に統治された豊後は幾つもの小藩に別れたので、犬飼から岩戸までの大野川は竹田の岡藩、臼杵の稲葉両藩の境界となることになったのである。大野川の通舟については、川幅の中流を以って領界として、双方が通船していたのであるが、川辺部落も、その対岸の百枝、西原も、ともに臼杵領であったから、この二部落に挟まれた水域のために、岡領の通航が中断されていたのである。
 臼杵藩には臼杵港があり、大野川経由の荷が増えれば臼杵港が衰退することは明白で、三重の市が岩戸の市におびやされることも考えられ、臼杵藩が自分の領地内の大野川を岡藩の舟が通る事を許可しなかったのは容易に推察できる。

結局明治時代になって始めて実現した。明治4年7月廃藩置県により中川藩は岡県、稲葉領は臼杵県。間もなく同年11月各県廃止、大分県に統合される。これによって旧藩時代各藩の間の境界がなくなった時、緒方郷あたりから大野川通舟の要望が起こり、大野川通舟のための工事を県営として採択された。明治5年2月起工、6年9月竣工を見たのが犬飼沈墮間である。そして沈堕竹田間の川ざらえが明治7年9月から始まった。岡藩主中川公の素志はここに達せられたのである。

起点は竹田駅前の稲葉川右岸、元岩城屋旅館の裏に当たる岸であったようだ。下木の舟着き場のあとである。(岩城屋旅館は川に柱が立っていて建物が少し川の上に出ていた。現在は国道10号線沿いに移転している。また、平成2年の水害の復旧工事で川巾が広げられ、今はその面影はない。)
 稲葉川、濁淵川と大野川が合流する水量豊かな十川では、舟を通すための掘割が見られ、その下流のコウモリの滝には、樋をつくって滝をおろした。その樋の跡がみられるコウモリの滝周辺は、一昨年県の文化財に指定された。また、下流の沈堕の滝では、舟を乗り換えて下っている。(現在ではコウモリの滝の上流には軸丸発電所用ダムがあり、平常時はすべて発電所に水を取られて水の無い滝である。)

実は士族授産会社「開産株式会社」が竹田にある。平成8年に「開産株式会社の歴史」が出版されている。明治12年に設立され、当初の業務に茶業、貸金のほかに物資運搬業務があり、舟を持って川回漕業を営んでいたのである。回漕業は長くは続かなかったようだが、大野川通舟の歴史のなかで実際に回漕業を営んでいた会社が現存することに驚かされる。

 

2.岩戸のこと(清川村

沈堕の滝から大野川が正面の山にぶつかるところ岩戸は、竹田と河口の中間点にあたる。三重は稲葉藩の市がたって栄えており、岡藩はそれに対抗して岩戸に市を開いている。その岩戸公民館に大野川通舟の歴史を残す「大野川通船碑」がある。大野川通舟の歴史をほとんど語り尽くしているといって過言ではない。「大野川沈堕今昔」に現代文で紹介されているので引用させていただく。 

「大野郡は豊後の南にあり、面積も広く物産も多く、他郡より優位にある。しかし道路悪く、不便である。このため、農産、林産物の搬出できず、県外に売る事もできず、価格も安かった。大野川は郡の中央を流れ、直入郡稲葉川、白滝川(大野川)が源流である。東に流れて緒方川と合流、さらに白山川(奥岳川)とともに犬飼を経て大分郡の海に入る。犬飼より下流は昔より通船の便があってよいが、この上流の大野、直入両郡の物産はみんな人力や馬で運ぶため、大変不便であった。
 岡藩の先代中川山城守(入山)はこれを憂い、犬飼より岩戸(清川)まで通船しようと計画したが、実現せずに逝ってしまった。それから二百年たって、中川久昭公が先公の遺志を継いで計画したが事故に遭って中止した。間もなく維新となり、富国政策となり、緒方、井田両群に通船の気運高まり、明治五年二月起工、六年九月完工した。通船距離五里(約二十キロ)邪魔になる岩は砕き、難はよけて通った。総工費一万五千円。今や既に二十四余年を経たが、販路も開け、過剰農林産物も県外に出るようになり、値段も高くなった。これは通船の便によるものといわざるを得ない。それで、この事実を石に刻して後世に伝える。

明治三十一年八月         赤座弥太郎撰」

 

3.細長・吐合のこと

臼杵港が稲葉藩にとって表玄関としての役果していたとすれば。吐合、細長は裏玄関としての役割を負担していたと言えよう。稲葉藩の領地をみても、319村のうち大野郡には168の村があったのである。

細長は犬飼石仏が近くにある三重川が合流する地点で、岩が多く犬江釜峡と併せて峡谷をなしている。吐合は野津川の合流地点で、川幅が広く水量も豊富で、鶴崎までは大河の様相を呈している。舟運には吐合港のほうが有利であった。

吐合は、臼杵五万石のうち、野津八万石と三重郷一万石の年貢の集結地ならびに積み出し港となっていた。それのみでなく、竹田藩のうち大野川東部にあたる清川や緒方、重岡辺りからも物資が集まっていた。
 集まった穀物では、米、麦、大豆のほか石灰、松、杉等の材木、竹材、胡麻、餅、鉱山物の錫などがあった。中でも米や大豆や石灰が多く積み出されている。
 しかしながら三重からの地理的条件が悪く(道程が遠く、山道あり、谷川あり、道は狭く、泥渟で、人も牛馬もひどく困難であった)手近な細長のほうが便利であった。

前記藩制時代には、吐合が主港で、細長は補助的に使用されたが、後期藩制時代には、吐合港が不便な地点にあった為に三重郷の百姓たちの訴願が功を奏し細長を主港として二港共に利用された。

  一方、吐合と臼杵城下との関係を、犬飼町史に次のように記されている。

「吐合より積みおろしをすれば臼杵城下へ出る荷物が少なくなり、逆に閉鎖して困るのは、在中のものと運送業者(船持ち)であり、とにかく臼杵出しは取引値段は安いし、運送業者は仕事が少なくなるので、野津・三重の住民は、臼杵出しに満足せず、根強く吐合出しを訴えていくのである。
 この積みだし港の交替は何を意味するのか。多分、臼杵商人と藩外商人、乙津、鶴崎商人との力関係が原因しているのであろう。臼杵商人が藩の力を借りて臼杵へ引いても、買い取る値段が安いために百姓が不満を訴えるようになり、止むを得ず吐合廻しになる。ところが、吐合に移れば品物は臼杵に廻らず、鶴崎から大阪の方へと流出して行き、臼杵商人の扱う品物の量は少なくなって行く。幾度か臼杵出しが吐合出しに敗退するのは結局、臼杵商人よりも藩外商人の財力が大きかったのではないかと考える。」

明治時代になると、船頭たちは旧領主より帆船の払い下げを受けて、個々別々の廻送業を始めた。そして、明治6年(0872)20人の船頭たちが自分の手持ちの船を出して、細長廻送組合を創立することに成功した。

しかしながら、帆船は依然として吐合より上流には上がれなかった。荷物は小舟で下ろし、吐合で本船に積み替えていたのである。組合はこの不便を除く為には、是が非でも細長、吐合間の川されへをせねばならなかった。そこで、明治6年から川されへ工事にかかり、同9年3月に竣工した。
 細長株の成立−川さらへの竣工−細長保存会の結成−問屋の開始−統制された協力体制−などが整うと、大野川を大動脈とした通船が始まった。物資はここに集まり、ここから四散して、大野直入の大玄関となった。
 この通船によって運賃は安くなり、時間は短縮された。この恩恵を受けたのは三重郷のみならず、緒方郷、直入地方、遠く阿蘇郷に迄及んだ。1日に70台−110台の荷馬車が輸送に当たった事から考えても、この細長河港の繁栄を察することが出来よう。
 この渡し場も、細長橋の開通(大正6・12月)犬飼駅の営業開始(大正6・7・20日)と共に廃止になった。

 

4.犬飼のこと

犬飼大橋の下流右岸から犬飼の町を眺めると、石垣の風景に江戸時代に港として栄えたまちなみをオーバーラップして感じる事ができる。左岸の水辺に下りてみると江戸時代の石畳が残っており、少し下流の芝北川との合流点には波乗り地蔵の姿が岩に刻まれ、殿様が舟に乗り降りしたであろう場所もある。また、犬飼町役場の上の岡藩の参勤交代道路には蒲鉾型をした石がある。以下「犬飼町史」より抜粋

 「その犬飼町を中心とする道路と舟運は1656年(明暦2年)を境に大きく変貌する。三代将軍家光は1635年(寛永12年)、参勤交代を定め全国の大名が2年に一度の江戸詰が強制されるようになると、その往来のための交通がにわかに発達する。当地岡藩においても、参勤交代によって交通は発達してくるのである。
 参勤交代の最初の頃は、大迫より茜川を渡って石井に上り、田原の上重を通って鶴の瀬より乗船されたと考えられる。
 それが、1656年(明暦2年)の船着場の変更により、交通路も大迫から下の原を通り町の頭へと変わることになった。現在も、当時の参勤交代の石畳が
犬飼町の上ワ村に残っているし、上ワ町の通りには、蒲鉾型の石が並んでいる。
 参勤交代のための大名行列はは
千歳村の高添部落から犬飼町の下原部落に入り、山の尾根伝いに犬飼町の頭へと出たのである。

第13代岡藩主久教は1819年(文政2年)8月28日に岡城を出発し参勤交代の途に着き9月1日に三佐を出発しているから28日は犬飼泊まり、29、30日は三佐泊まりであったと考えられる。9月21日に大阪着、江戸には10月10日に到着している。41日間の旅であったことがわかる。これから5か月間江戸に滞在した。帰路は三佐より犬飼を通らず今市を通って竹田に帰った(陸路)。
 殿様道路が整備された一方、お蔵所ができたことによって、犬飼は年貢の集積地ともなり、そのための地方道路も整備されていくのである。犬飼の水上交通もまた発達をしていった。つまり、参勤交代の往路である犬飼・三佐間を御座船で航行することになったことと、年貢取立所を新設し、御用商人も数軒置いたということから、産物輸送のための舟運とあわせて発達した。
 陸上交通や水上交通の発達によって、諸国行脚の旅をする者も増えた。特に、重い年貢に苦しめられた農民が、新田開発や農業技術の進歩によっていくらか生活に余裕がでてきたものと考えられ、有名な神社仏閣へ巡拝の旅にでるようになったのである。」

 5.通舟の実相

最後に『郷土史話 細長河港を起点とする明治・大正大野川通船史』より、河港の距離や時間、寄港地などを抜粋で紹介させていただき、犬飼からのすばらしい大野川を上り下りする舟運の風景を思い浮かべてみよう。

1)河港の距離

細長、犬飼間・・・1里(通称)

犬飼、鶴崎間・・・6里( 〃 )

2)通船の時間

      上り順風5時間(細長、鶴崎間)

   無風1日半    (   〃   )

   下り平日6時間(   〃   )

   客船下り  平水・・・1時間半(犬飼、白滝間)

         増水・・・1時間 (  〃   )

3)寄港地

細長発〜犬飼〜田原(両郡橋)〜筒井(上戸次)〜竹中〜白滝(中判田)〜松岡〜宮川〜金谷〜鶴崎(三間松)

4)積荷

  大分港行き・・・緒方米、木材、竹材

  別府港行き・・・木炭、木材、竹材

  豊岡港行き・・・すす竹

  佐賀関行き・・・鉱石(かます入)

  帆(二十石船)貸切の場合

  平水・・・米4斗入60俵・・・4円〜4円50銭位

  増水・・・米4斗入100俵・・7円50銭〜8円位

沖めぐり運賃は上の金高に7円、8円増しが相場で、石、薪等は米に準じた。

5)客船

  細長〜犬飼・・・・大人15銭

犬飼〜鶴崎・・・・大人25銭

6)造船費

  帆船(20石)・・・100円

  客船・・・・・・・ 50円

釣船・・・・・・・ 30円

7)川さらへ

毎年秋(210日)後の減水季節に入ると川さらへを行った。1株から1名出場で、形23人、それに渡無瀬(となせ)部落に帆船が3隻あったので三人加入、計二十六人の3日公役であった。
 なお、大野川の就航の出来る区域を、関係組合に割り当てて、さらへる申合であったので、細長組は、細
長〜犬飼間が責任区間であった。

8)引き綱

順風の日には、下りよりも速力が出た、そんな帆の快適は今も忘れられない−と、むかしの船頭であった藤田老人は語ってくれた。然し、無風の上りには、一方ならぬ苦労であった。船頭、船方は、サオでさし、船子は33尋の綱を背にかけて、河岸から曳いた。そこで、この曳き子は、青年でなくては続かなかった。
 綱はシュロ縄で、大人の小指よりやや細かった。船子のはく足半は農家ではく物より短かった。河原を終始爪先歩きであったから、短い程、都合がよく、濡れても重くなかった。

9)船のつなぎ方

鶴崎の船付は沙浜であったから、船は杭につないだ。その他の川筋では、碇を下ろすことはなかった。」

 

6.鉄道の開通

海岸線を走る鉄道は別として、川と鉄道が一緒に走る光景は日本のあちこちにみうけられる。川を道とし、やがて川沿いに道ができ、馬車が行き交い、そこに鉄道が走るようになる。そして今日、道路網が整備され車社会になって、過疎地を走る鉄道はその機能を失いつつある。
 豊肥線は中判田を過ぎるころから大野川に沿って阿蘇に向かう。道路を走るより鉄道に乗ってのほうが、大野川の風景が多く眺められ、心を和ませてくれる。川は時代の移ろいを感じながら永劫に流れつづけている。そこに歴史、文化の蓄積がある所以であろう。

 

結び

江戸時代から明治時代にかけて、流域住民は豊かな暮らしを目指して、想像もつかない位の熱い思いを持って大野川とその自然に挑戦していったのである。そして道路と鉄道の発達に伴い大野川通舟の時代は終焉を向かえた。

昭和に入ってからは食料増産政策により灌漑用水路が整備され、電力発電用ダム建設で豊かで便利な生活を夢見、着実にその夢を実現させていった。やがて河口の臨海工業地帯に大分県の夢をかけるようになる。運ぶ大野川が生産する大野川へと変遷し、その時々により大野川に対する思いが変化していった。

現在は車社会。国道10号線は片道2車線の工事がピッチをあげている。広域連合、地方分権の時代に突入し、大野、竹田、直入を貫通する高規格道路も計画され、まちもまた変化を余儀なくされるであろう。この間生産として使われ始めた大野川は装置と化し、人々から遠ざかってしまったことも事実である。

そのことが我が里の魅力を失わせていることに気付き、26年もかけて昔の川を取り戻そうと集落を挙げて取り組んできた白山川を守る会を筆頭に、社会がどう変化しようと、そこには歴史と文化が積み重なって、大野川は永劫に流れつづけていることにまた気付き、大野川を心の古里として復元しよう、大野川をとりこんだまちづくりに挑戦しようと、流域に多くの川へのボランティア活動が生まれている。

河川法が改正され、地域住民の意見を取りいれた川づくりが法制化された。建設行政に限らず、自然との共生、住民と行政のパートナーシップが問われる時代である。灌漑用水路建設の歴史にしろ大野川通舟の歴史にしろ、住民の熱意と行政の熱意が夢の実現を可能にしたように、住民が地域を、川をつくるんだという意気込みが求められ、同時に責任も問われる時代である。

さて、上流で川を汚せば下流に汚れがそのまま流れ着く。昨年の11月の大雨では河口の河川敷がゴミの山となった。一方、川辺ダムで堰き止められた水は昭和井路で運ばれ、大分市の農業用水となって戸次、松岡、鶴崎、坂ノ市までの田畑を潤し、戸次で取水された水は、大分市の水道用水、工業用水として利用されている。下流住民はただ恩恵を甘受しているだけでは悲しいものだ。

川は行政区に関係なく山々の源流から河口まで繋がって流れる。川を考える、川づくりをするには、上流の住民も中流、下流の住民も一緒になって取り組まなかれば意味が無い。 

大野川通舟の歴史は、今日の大野川への取り組み方を有り余るほど示唆してくれる。語り尽くせない分を緒方の民俗学者、高野好吉氏の執筆された「緒方雑話・大野川通舟考」の結びを紹介させていただいて終わりとしたい。 

「大野川河口港として栄えた鶴崎も河港犬飼も市場三重も岩戸も汽車の開通に因って繁栄を奪われてしまった。時の流れは激しい。大野川通舟を企画した岡藩主入山公没して後80年にして漸く竹田犬飼間の通舟成る。而もそれより半世紀を出ずして大野川の通舟は全く止んでしまった。しかし、あのコウモリの滝に大樋を架して舟を実際に通した当時の人達の強烈な意欲は、驚くべくして且つ忘るべからざるものがある。大野直入という山地居住者〜我々郷土の先人たち〜の苦渋と、何とかしてこれを打開しようとした大野川通舟という事業の価値を無視することは出来ない。

 一旦寂れた鶴崎は臨海工業地帯として新しく繁栄を誇ろうとしている。さて現在大野川開発計画なるものあるを聞く。県や関係市町村が如何なる計画を盛っているのか、私はその詳細を知らないが、この開発計画によって流域居住者に繁栄をもたらせるかどうか。旱害、水害、農業用水、工業用水、発電用水、都市飲用水等の複雑な事情が水源としての河川にまつわりついている現代であるから、川の水を単なる自然物として勝手に独占することは許されない。各地で問題を惹起している多目的ダムにも深く関心を持たざるを得ない。

 四季昼夜の別無く水を消費する近代工業は河川の水量を変えるだけでなく水質まで変化させて農業用水に障害を与える恐れがある。水田灌漑用水は夏を中心として6ヵ月間だけ、これが多目的ダムの場合農業が軽視される最大の理由になっている。有名な愛知用水事業は農業開発の目的で始められたが、結局は都市用水に変貌して、農民は其の高額な負担金に堪えきれず農業用水とすることを止めてしまった。農業開発事業が却って農民に重圧を加えた例として愛知用水を忘れてはならない。古くから農民が死守して来た農業用水を残すよりも新しく出来た工業用水に利用した方が公益性が高い、と政府なり県当局が判断することがあるとすれば、大野川開発事業の如何によっては米どころ緒方の田には水がかからなくなることも有り得る。」中略

「私は本稿で昔の大野川通舟に就いて恥か知る所を述べたが、資料も少なく研究調査も不十分で半端なものになった。稿を終わるに当たり、大野川開発事業で新しく脚光を浴びるようになって来た大野川を想い、その事業が我々農村人にも福祉と喜びをもたらすものであってほしいと念願して止まない次第である。」

(昭和43年8月26日稿了)

高野好吉氏は昭和61年に亡くなられた(享年86歳)

 参考文献

「緒方雑話」緒方町 高野好吉著

「歴史の道」調査報告書「臼杵城路」大分県教育委員会

「歴史の道」調査報告書「岡城路」大分県教育委員会

犬飼町史」犬飼町

「郷土史話、臼杵領河港細永について」大分合同新聞社

「大野川・沈堕今昔」大分合同新聞社

「開産株式会社の歴史」開産株式会社 鳥養孝好著

 

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