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大野川のこと 遺跡と古記録でたどる大野川流域の歴史
郷土歴史研究員 吉良洋一
縄文・弥生時代〜古墳時代
私たちの先祖が大野川の流域に生活しはじめたとき、日本列島はまだ大陸と陸続きでした。それから数万年、この地域の人々は大野川とともにその歴史を刻んできました。以下は荻町から河口までの約74キロの流域の、各時代の遺跡と古記録にみる大野川流域の歴史です。
日本列島に縄文時代以前の文化(旧石器時代)が存在していたことが判ったのは、二十世紀も後半に入ってからのことです。近年、大分県下でも旧石器時代の遺跡がかなり発見され、そのうちの多くが大野川流域に集中していることが判ってきました。たとえば大野川本流と奥嶽川の合流地点の台地に展開する岩戸遺跡(清川村)や、三重町の百枝遺跡などが、旧石器時代の大野川流域の人々の生活を伝えてくれる代表的な遺跡です。
その後、今から一万二千年くらい前に新石器文化(縄文時代)が始まりますが、この時代の遺跡もまた大野川の流域の各地から発見されています。
それらのなかで、縄文早期の遺跡としては上流域に位置する荻町の政所馬渡遺跡が著名です。また朝地町の田村遺跡からは縄文後期の集落跡が見つかっています。
約一万年続いた縄文時代が終わり、弥生時代へと変わったのは紀元前三〇〇年前後とされています。竹田市菅生台地の小園遺跡や千歳村の鹿道原遺跡では、弥生時代の大規模な集落跡が発掘されており注目されます。
弥生時代の半ば(紀元前後)、日本列島の各地に小国家が成立したころ、大野川流域にもその小国家が存在していたと思われます。群立する小国家が一つの国になる時期については明確ではありませんが、少なくとも三世紀後半から四世紀前半には大和朝廷による統一が進められていたと考えられます。それを示すものとして大和朝廷と密接に関係する前方後円墳が各地で発掘されています。大野川流域では竹田市菅生の七ツ森古墳や三重町の古墳、河口に近い大在の亀塚古墳などが、小国家の存在と大和朝廷への服属を示す間接的な証言といえるでしょう。
わが国の現存する歴史書、地理書のうち、成立時期のもっとも古いものは八世紀に成った『古事記』『日本書紀』、そして五つの『風土記』であることは良く知られています。実はこれらの古典籍に早くも大野川流域の地名や伝承が登場しているのです。
たとえば、『豊後国風土記』や『日本書紀』の景行天皇の九州遠征・土蜘蛛討伐に出てくる「ネギノ」の地名は、現在の竹田市禰疑野にあたり、先に述べた七ツ森古墳と至近距離であることなどはとても興味深いことです。『豊後国風土記』によれば、豊後には八つの郡があり、それらの郡名は基本的には現代まで引き継がれています。ちなみに直入郡には「郷四、里十、駅一」、大野郡には「郷四、里十一、駅二、烽一」があると記されています。これにより、八世紀頃の地方の行政単位や軍事施設が確認でき、大野川流域もしっかり中央政府の支配下に組みこまれていたことがうかがえます。
〔日本書紀巻第七「景行天皇」の解説(岩倉紙芝居館 古典館 日本書紀 7-1
上田啓之氏のホームページ)〕感謝。
平安時代〜鎌倉・室町時代
八世紀以降、奈良時代から平安時代にかけて、豊後国では宇佐神宮関連の資料(荘園制の発達を示す資料等)は多く残っていますが、大野川流域の遺跡や古記録類はあまり残っていません。しいてあげるとすれば、延喜式(九二七年)にみえる竹田市神原に鎮座する「健男霜凝日子神社」(姥嶽明神)や大野川流域の磨崖仏の作者とされる「日羅伝説」、あるいは三重町の内山寺に関わる「真名野長者伝説」などでしょう。
ふたたび大野川流域が注目されるのは、大神氏の活躍する平安時代の終盤からです。
大神氏は宇佐神宮の荘園であった大野郡緒方荘を本拠地として成長し、豊後武士団を率いて宇佐神宮と対立しました。とくに緒方(大神)惟栄は、『平家物語』や『源平盛衰記』によると、十二世紀末、源平争乱の決定的場面に登場し、平家滅亡のきっかけをつくった人物として著名です。平家滅亡後、緒方惟栄は、頼朝と対立した義経をこの奥豊後の地に迎えるために城を用意しました。それが竹田市の岡城の始まりであるといわれ、大野川の上流、稲葉川と白滝川(大野川)の合流する直前の峻険な台地が選ばれています。
また、日羅伝説の大野川流域の磨崖仏が作成された時期も、史実としては十二世紀の大神氏の台頭の時期と密接に関係しているものと思われます。
義経の豊後下向の失敗は、大神一族の衰退を招きました。鎌倉幕府の支配が始まると豊後国は頼朝の知行国として直接掌握されました。頼朝の支配が大野川流域に及んだとき、大神一族のなかで最後まで抵抗したのは、大野荘の荘官大野泰基でした。『大友興廃記』によれば、大野泰基は朝地の神角寺にたてこもって抗戦しましたが、敗れて自刃したようです。このときの戦乱で山上の堂宇は焼失しました。
その後、応安二年(一三六九年)に大友氏が六坊を建てて復興しましたが、これもまた荒廃し現在は東の坊を残すのみとなっています。現存の東の坊は唐様式を取り入れた桧皮葺宝形造りの建物で、全国的にみても室町時代の優れた建築物といえるでしょう。また山門には鎌倉仏師の手になる仁王像の秀作も現存しています。
鎌倉時代から室町時代にかけての四〇〇年間の大野川流域は、守護として赴任した大友氏とその一族(志賀氏、一万田氏、田北氏、戸次氏、朽綱氏等)による支配が続きました。その大友氏支配の末期(十六世紀半ば)、ザビエルの豊後来訪によるキリスト教の布教は、大友宗麟の保護とあいまって、またたくまにこの大野、直入の地にもその信者をふやしていったのです。今も残る大野川流域各地のキリシタン墓はそのことを物語っています。
久しく続いた大友氏の支配も、十六世紀の後半になると翳りを見せはじめます。とりわけ一五八六年の島津氏の豊後進入による打撃は大きかったようです。このとき大野川の下流域でくりひろげられた「戸次川の合戦」は、応援にかけつけた四国の長宗我部信親の勇猛な戦いぶりと戦死、大友義統の大敗でよく知られています。
江戸時代以降
【舟運について】
十六世紀末、大友氏の滅亡した後の江戸時代の豊後は小藩に分けられました。その結果、大野川上流域ならびに中流域左岸は岡藩(中川氏)領、中流域右岸は臼杵藩(稲葉氏)領、河口の鶴崎は熊本藩領、三佐は岡藩領、その外の下流域には臼杵藩、延岡藩、府内藩、幕府の領地などが入りくんでいました。
内陸部を領地とした岡藩は参勤交代や諸物資交易のため、瀬戸内への重要拠点として中流域の犬飼町と河口の三佐町の整備に力を入れます。犬飼には藩主の休憩所としての御茶屋・年貢米の集荷のための御蔵、三佐には藩主御座船の船奉行、水主などが配置されていきました。臼杵藩は犬飼の対岸で野津川と大野川の合流点「吐合」に港をつくり、番所も置き、さらに三重町の「細長」にも港を持っていました。
明治時代になると竹田からの舟運が始まります。竹田の十川の浚渫の跡、朝地の蝙蝠の滝の樋、清川にある大野川通舟碑、細長、犬飼の港跡に、今も舟運の歴史を見ることができます。しかし、鉄道が敷設されはじめ、大正六年には豊肥線犬飼駅が営業を開始し、道路の整備もあいまって、徐々にその幕を閉じたのです。
【灌漑用水について】
江戸時代、各領主は年貢の増収を願い新田開発に積極的に乗りだしました。豊後の各藩でも十七世紀後半から新田開発のための水利の整備がおこなわれ、溜池や井路がさかんに築造されていきます。大野川上・中流域では岡藩の藩主中川久盛、久清らによって大野と直入両郡の良田化が図られました。正保二年(一六四五年)緒方上井路が、慶安三年(一六五〇年)には緒方下井路の開削がはじまり、その完成によって、上自在、下自在など二七九町が潤ったのです。また寛文二年(一六六二年)の城原井路の完成は城原、明治、豊岡村五四六町が灌漑されたといわれています。近代に入ってもこの長大な井路の開発は絶えず進められ、その代表的なものは昭和井路です。
【石橋について】
流域の遺跡や古記録をとおして大野川の歴史をたどってきましたが、最後に「石橋」のことにふれておきたいと思います。
近年その価値が再認識されつつあるアーチ石橋は、県内では大野川とその支流に多く分布しており、江戸時代の文化年間(十九世紀初頭)、熊本からその技法が伝えられたようです。なかでも野津町と三重町の境、三重川にかかる虹潤橋(一八二四年建造)は、技術的にも美的にも非常に優れたものであるとの評価を受けています。そのほか、大野町の古殿橋や荻町の岩戸橋、久住町の神馬橋なども江戸時代の貴重な遺構です。
また、「紅燗橋」と、荻町と竹田市の堺に建設され、美しい幾何学文様をなして落下する「白水の堰堤」は、国指定の重要文化財に指定されています。
参考文献
「源平の雄緒方三郎惟栄」
渡辺澄夫
第一法規出版
1981年
「大分歴史辞典」
大分放送
1990年
「角川日本地名大辞典」
角川書店
1980年
「大分県の地名」
平凡社
1995年
「大野川流域の文化財展望」
後藤竹彦
第一法規出版
1983年
「大野川流域の文化と自然」
大分県
1977年
「大野川
大分大学教育学部」
1977年
「奥豊後大野川の流れに沿って」
大分県観光協会
1982年
「緒方雑話」緒方町
高野好吉著
「犬飼町史」犬飼町
「郷土史話、臼杵領河港細永について」大分合同新聞社
「開産株式会社の歴史」開産株式会社
鳥養孝好著 |