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大野川のこと


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おとろし渕の河童   千年渕の河童   せこと木こり   淵ん主に魅入られた娘

河童と相撲   河童の尾根越   柴山ん水車んこと   柴山地区に伝わる河童伝説

おとろし渕の河童

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いつの頃かずーっと昔、鳥屋村のお百姓に、幸 という若者がいました。ある夏、忙しかった田植えもすみ、さなぼり(田植休み)の日、魚釣りに出かけました。鳥屋の谷間からの湧き水が集まって山田をやしない、水車をまわし、田夫時と白石の間の渓谷の間を流れて、池在の方に出る流れに沿うて釣りを楽しみました。馬の尻尾の毛をつなぎ、釣針をしかけ、短いさおで、ミミズを餌にして、よどみを見つけては、釣って歩きました。小さなアブラメが四〜五匹釣れただけで不漁でした。

帰り道、両岸に樹木が生い茂り、深くよどんで見える渕がありました。そこは不気味な所で誰云うとなく「おとろし渕」とよぶようになり、また「雨乞い渕」ともいわれました。

渕にたどりついた幸三は、不漁でしたので、気は進みませんでしたが、釣糸を入れてみました。ところがどうしたことか?大きなアブラメが面白いように釣れました。腰のシタミ(びく)が重くなるころ、岩に腰をおろした幸三は、田植えの疲れがでたのか、うとうととまどろみました。それからどれくらいの時がたったのでしょうか。シタミの中の魚と渕の魚が話をしているのです。

「よいお前たち、そんかごの中に入ってどこに行くんか?」「うーん、俺達やこれから鳥屋ん幸三方へ腰を りに行くんじゃ。もう帰らんかもしれん、達者でなあ」「なぁに、近えからおれたちがすぐ迎えに行っちゃるぞ」と話し声が終わったとたん、幸三は「ハッ」と目を覚ましました。

気がつくとシタミは腰からはずされて渕の中につかっていました。急に冷たいものが背筋を走りました。幸三は釣竿を投げ捨てて、とんで家に帰りました。渕のわきの坂道を駆け登る幸三は、後の方で、何か笑い声を聞いた気がしました。後で幸三の話を聞いた鳥屋の人たちは、それは河童の仕業だろうと話合いました。

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千年渕の河童

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江戸時代の堀家には、重要な道が二本通り、一つは、参勤交代道の尾根伝いの「往還」とよばれる道で、もう一つは、長瀬戸を通り、平井川の「さざえが瀬」を渡って平井に出るわき道で「長瀬戸往還」とよばれ、本往還の参勤交代道より、はるかに近道で、旅人の往来も多く、岡城の殿様中川公も、しばしば通られたといわれています。

この「さざえが瀬」は、とてもきれいな瀬で、食べ物を売る人や、旅人を背負って渡す人夫もいて、大変にぎやかなところでした。

平井川の津留の中程にある「さざえが瀬」の近くに一つの渕があって、この渕に、悪い河童が住んでいて、旅人を水に引き込んでは人を困らせ、命を落とすこともしばしばで、河童のしわざを、人々は恐れていました。

あるとき、通りかかった修行僧が、このことを聞き、河童封じの術を施し、これより千年出てはならぬと、「自是千年」と岩に大書して刻み、それからは犠牲者は出なかったといわれています。

しかし冬は凍ったり、また、夏はにわか水で通られず困っていましたので、文化十二年秋、坂井迫組の大庄屋、志賀親常が中心となって、ここに橋をかけました。大正十二年、この一帯は埋め立てられ、豊肥線が開通しましたが「自是千年」と「栄螺ヶ瀬由来碑」は、今も残っています。

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せこと木こり

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昔々、この村に与作という木こりが住んでいた。与作は、大変な働き者で、朝早くから、山で木を切っていた。山に行って仕事を始めると、毎日、せこが出て来て切株に腰掛け「与作さー、そげん っぴり腰じゃー木は切れんぞ。それ右じゃ。こんだあ左じゃあ。」といちいち仕事にけちをつける。与作は腹が立って仕方がない。それで与作は「見ちょれ。こん石う投げつけちゃるきのう。」と思うと、「お前、今 い石う投ぎゅうと思うたろうが、ほら、こんだあ、木を投ぎゅうと思うたろうが。」と、与作の思った事の先を先をと言うので、与作も、こん畜生とは思うがどうにもならない。あきらめて仕事をしていると、どうしたはずみか、斧の先が飛んで、せこのそばに落ちた。たまがったのはせこで、「ヒヤー、こりゃたまらん。何とまあ人間という奴は恐しい奴じゃろう。思いづきもねえこつうする奴じゃ。危ねえ危ねえ。命あっての物種じゃ。桑原、桑原。」と一目散に、山奥に逃げ帰った。

与作も、今日は が悪いので、 にして帰った。その晩寝ていると、大勢の人が集まって、裏山や向う山の木を一本残らず切り倒すような音が一晩続いた。朝起きぬけに外に出て見たが、一本の木も倒れておらず、何の変ったこともない。ハハー、さては昨日のせこの だったかと考えた。

せこという奴は、時々こんな悪さをして村人を恐がらせたと言うことです。

 ※せこは、夏の間川で河童といわれるが、冬の間は、山に上がって「せこ」といわれる。

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淵ん主に魅入られた娘

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柴山 秦 義雄氏談

昔ん結婚な、見合いじ成立する形い多かった。特に農村じゃあこん形い殆んどだったように思わるる。見合い結婚にゃあ仲人い必要じゃあ。仲人とは、文字通り婿ん側と嫁ん側ん仲人ん労うとる人んこっじゃあ。仲人は、ただ馬鹿正直だけじゃあようつとまらん。双方んよい点ばかりゅう拾いあげ大げさにほめ上げ巧みに縁談を成立させる手腕がねえと都合いわりい。そげん時口先三寸でうまくまとめ上げる話術んこつう仲人口ち言うんじゃあ。

所じ、柴山地区んような所ん仲人は嫁もらいに苦労したちゆうこっちゃあ。もちろん昔んことじゃが。というのは、昔ん柴山ちゅう所は有名な畑どころじ水利ん便が悪うじ大そう人々い困っち苦労しよったが、それをうまく言いつくろうち婚約を成立させんならん。そうゆう訳じ仲人ん苦労は大へんじゃったらしい。

柴山んある地区ん場合は、「こびる」ちゅうち水田の中えある「いのこ」(泉)から汲んじ使いよった。「いのこ」は四百メートルぐれえ離れた所いある。洗濯なんかに使う水は、溜池かる流れ出る余り水う田ノ口川と呼びおるがそん水う汲みとっち「にない」と呼ぶ桶に二十リットルぐれえ入れち前後に「六尺」ちゅう棒じかつぐんじゃあ。溜池ん余り水ん流れちいうてんこん溜池ゃあ大きい湧水池じゃあきいちょっとした小川ぐれえ水量いある。

 う沸かすにも何かと手間んかかるこん地区ん人々は、夏時分になるとこきい行水をしにやっちくる。 う出るとき あ褌一丁じ手ぬぐいと取り替え用ん褌ゆうもっちくる。来るとすぐ えなっち水ん中に体を沈めごしごし う洗うち褌ゆうとりかえちさっと帰る。ひとによっちゃあ褌ゆう洗うち帰る人もある。

女ん人ん場合いん行水の場合はそうはいかん。女ん たあうす暗うなっちやっちくる。昔んことじゃきい、うす物ん上衣と腰巻き(脚布)姿じゃあ。あたりぃうす暗うなっちかる上衣ゆう脱ぎパッと腰巻ゆうはずしすばよう水ん え体をしずむる姿は夜目にもなまめかしゅうじ白い肌いきわ立つ。体を洗うち新しい腰巻に取り替え着古した なあそれ女ん事じゃあきい石ん上にパッパッパッと打ちつけち洗濯しち人によっちゃあそりゅう頭についじ水を擔いじ帰る人もある。

こん小川ん淵にゃあ、「淵ん主」が住んじょった。「主」ゃあ、こん地区ん人々ん日常ん行いを見る事い久しいけんど、とうとう毎晩こきい行水に来る一人ん娘にすっかり心を奪われちしもうた。夜目に浮かぶ え娘ん妖しい姿にもうがまんができんごつなった。神通力を持っちょうる淵ん主でんこん道ゃあ別じゃろうか。淵ん主ゃあ、我を忘れちすっかり若え娘ん姿んとりこになっちしもうた。

それからちゅうもんなあ、夜な夜な淵かる上がっち娘ん い通いはじむる。そんころ、柴山地区は戸締まりゃあ特に厳重じゃった。そん当時この辺に、「放てば危ない闇夜の鉄砲。はずせば危ない納戸のかけ金」という俚諺があった。特に嫁入り前ん娘ゃあ、夜ばいとよばるる不将もんかる身を守る為親ん警戒は厳重じゃった。そん警戒ん網もなんのその神通力をもっちょる「主」にゃあ役にたたんじやすやすと娘ん寝所に入っち寝床にもぐりくうだ。娘ん体は不動ん金しばりにおうたように動かん。そんくせ意識ゃあはっきりしちょる。「淵ん主」ゃあ横着にも全身に心ゆくまじ觸るる。娘はだんだん善悪ん意識ものうなり官能的になっち昴ぶる。とうとう娘ゃあぐったりしちしまう。そりゅう見ち「淵ん主」ゃあ、どこからとものうでちいくんじゃあ。

こげんふうに「淵ん主」ゃあ、 いほれつづけち、 こきい通うんじゃあ。そんたみい ゃあげっそりくたびれ果てち、別人のように、病人みてえになっちしもうた。たまがった女ん友だちゃあ親切に慰めち娘かるそん訳ゅう聞いた。娘い語る毎晩かくかくしかじかん話に友だちはほんとうにたまがっちしもうたけんど気丈そん友だちゃあ「あん寺んゆかりん行者に祈とうしち貰いなあ。大へんな力を持っちょる人らしいで」と、すすめた。村人ん中にゃあ「そん淵ん主」は「ミイラ」じゃあという人もいた。ひょっとしてこん川ん淵じ不慮ん死をした人かむ知れん。

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河童と相撲

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昔、 の下に河童がおって、村人を見つけると、「相撲を取ろう。相撲を取ろう。」と、河原に引っ込みます。いつも河童の勝で、村人は一人も勝った物がおりません。ある時、村の若者が、飯が少し足りないので、お を食べて通りかかりました。いつものように河童が出て来ましたが、若者の顔を見るとたまがったように、「今日は相撲は止めたぞ。お前は、今日お仏飯を食うち来たろうが。目ん玉が光っちょる。」と言って帰って行きました。河童は、仏様や神様が恐いらしいのです。でも、若者は、一度相撲で河童に勝ちたいと思い、村の長老に相談してみました。長老は「河童は頭の上に皿があり、その皿に水がある間は力が出て強いが、皿の水がなくなると力が無くなって弱くなる。」と話し、「今度、相撲を取る前に逆立ちか、とんぼ返りをやらせれば勝てるかもしれないな。」と教えてくれました。

若者が、翌日通りかかると、河童が相変わらず、相撲を取ろうと出て来ました。

「よし、河童どん、今日は、先に逆立ちの競争をしてから取ろうや。」というと、河童は承知して逆立ちやでんぐり返しをして見せました。その後で相撲をとりました。ところが、今日は、何度取っても、河童の負、若者の勝です。河童は、逆立ちやでんぐり返りで皿の水が無くなったのに気がつかなっかたのです。「ありゃ、俺も年かな。」と、しょぼしょぼと河童は帰って行ったとのことです。

それからは、四代橋には、河童が出なくなったということです。(四代橋は長湯ダムへ社家川が流れ込む所付近にあった沢水、辻へ行く道の橋、今はダムで無い)

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河童の尾根越

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むかしから、河童の活動は春の彼岸頃から始まると言われます。

河童にも人の性格十人十色というように、おとなしい河童、悪がきをする河童があります。

小さい渕に育った河童は育った渕より大きい渕を望み、又山向こうの川渕にも遠征するといいます。山を越えたり尾根を通ったり人里を通る時、よく里人に逢うそうです。

春の彼岸過ぎしとしとと春瀬雨が降り続く夕方から、河童の活動が始まり、希望する渕に移動するのです。

なぜ雨降りを好むかと言えば河童の体は常に濡れていなければなりませんので、雨降りでなければなりません。

河童が通る時は賑やかにヒューヒューと鳴きながら通ります。

そんな雨の夜、遅くまで人が通るとよく河童に出逢い化かされたり、おどされたりします。河童の化け方はたいてい大きなカエルになったり、何べん行ってもいきづまりになったりするそうです。このことを塗り壁に出逢ったと言います。

これは先頭の河童が仕組み、後の河童が通りすぎると、河童の術が解けて元の道になると言われています。また中には悪あがきをする河童は、山に入り、昼、山仕事をしたりキコリの木を倒す音、山崩れの音、山小屋をゆすぶったり悪がきをすると言います。河童がそんな悪がきをしたり、音を立てたりする時にはすぐ傍に来ているといいます。

夜おそくまで川釣りをしていて釣った魚がなくなったり、さおを流されたり、これはみんな河童の仕業と言われています。

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柴山ん水車んこと

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秦 義 雄

柴山ん溜池ゃあ双子ん堤じゃあ。上下二つん溜池じゃあ。こん下ん堤ん余水吐きん水ん量は大変多うじちょっとした小川程流るる。すぐしたより田ノ口川と呼ぶ。

こん川かる大野川に向けち途中ん水田ぬ潅漑しながら又湧水田の水ぅ集めち流るるんじゃあ。

こん小川に七つん水車いあった。水車は「さこんた」と呼ばるるんじゃあ。七つん水車は、それぞれ恰好い違うちょった。余水吐きい一番 え所ん水車は水車ん先端まじ桶じ水う通じ注ぐんじゃあ。こん水車は十人ぐれえじ運営しよった。当番制じゃあ。

二番目は、三十メートル下方に在っち、岩口、潅漑水路たあ別い、 う掘り上部水車と同様じ桶かる水ぅかくるんじゃあ。個人所有じゃあ。

三番目ん水車は、 え水路にある水車じ十字形ん木の枠に五升程入る箱いある。こん箱に水い一杯になると回り次ん箱い桶んとこりい来る。こん順序じ一回転する。こりゃあ個人所有じ仕掛けい小せえ。極く少量ん水でん操作い可能じゃあ。

四番目ん水車は最も本格的じ矢張り上部かる桶じ注ぐ方法じゃあ。これも個人持ちじゃあ。 米ん粉、小麦ん粉、麦ん粉、そば粉等々何でんすり、米も麦も精白し水車が本業じゃった。

他ん所ん水車は粉をひくのにゃあ向かん。粉にぃするにゃあ、小麦でん米でん蕎麦でん相当な回転数い必要じゃった。小川ん上流ん潅漑状況や干天か雨降りかじ相当回転数いちがう。こん場合小麦ん粉に特にそん影響いあらわるる。回転が い場合は小麦粉い練ったようになっちなかなか粉にならん。そうじゃあきい喰うてんおいしゅうねぇ。「こげん粉はとてん喰えん」人々はいうた。こん事かる「こはくれん」と言う言葉い生まれたとある故老は語っちくれた。もっともらしい言葉じゃと思う。この水車んある所ん下は岩下地区じゃあ。高低の差はねぇ。水路に水車を直接入るる方法じ緒方町ん水車と全く同形じゃあ。これは二ヶ所にあり個人所有じゃった。

水車小屋じ働く う車んぼうと うだ。中車い仕事量も最も多かった。本職にしちょったからじゃ。他ん六ヶ所は農業い本職じ水車ん方は副業じゃった。搗賃は別に決めちょらんじ慣習的契約いあっち製品(搗いた米、麦、又はそば粉)かる幾らか頂く方式じゃった。製品が減ると極端に評判ぬ落とす。車んぼうは、直接、農家に米、麦、蕎麦等を取りに行きそうしち「車かるい」と言うち縄を上手に体に巻きつけちそりゅう運ぶ、荷物い体に密着するのじ非常に効率的じ荷物も軽々と運べた。娯楽ん少ねえ時代じゃあ。関係者以外訪るることんねえ「さこ」じゃあ。夜おそうなってでん仕事ん片いつくまじせんわけにゃあいかん。「ろうそく」ん灯の下じ若え未亡人が一升ますを片手に米を量っていた時、うしろかるしのびよる者いある、夜這いと称する じゃあ。こげんこつも娯楽ん少ねえ時代だったからかも知れん。男は、若え未亡人に後から抱きつく。突然の いたまがった未亡人な持っちょった一升ますじ男ん頭を強うたてえた。あいにく力もずいぶんと い。そん男はほうほうんていじ頭をおさえちかたじい逃げたそうな。こんな話が数多う伝わっちょる。

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柴山地区に伝わる河童伝説

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秦  義 雄

こん柴山地区にゃあ、今でん河童は本当にいると信じ込んじょる老夫婦い居る。老婦人なよう河童い川から上っちきち女竹い生えちょる い行くのを見たという。

こん地区にゃあ柴山八幡社ん御幸所いあっち八幡社に奉納する子供相撲いあった。今と違うち娯楽い少ねえ時じゃったきいそれい結構村ん人たちの楽しみじゃった。

大正時代にゃあ、子供も赤褌ゅうしち土俵に上がっち相撲をとった。

こん神相撲のおかげじ子供も、川に住む河童どもも相撲い好きになっち盛んに相撲をとりよった。

昔ゃあどん家でん子供い多かった。夜になると川上ん河童い家に上がっち来ち子供ん部屋に近じいち障子ん外かる「相撲をとろう。相撲をとろうや」と呼びかくる。

子供は、ねぼけ眼じ えついちゆく。親はこりゅう大そう恐れち子供に「だまさるんな、ついちゆくこたあならんぞ」と、 い調子じ言うち聞かする。

「いいか、晩になっち河童んやつい上がっち来ち『相撲をとろう。相撲をとろうや』ちゅうちきち、お前を呼んだ時にゃあ(うんとろう、とるけんど、そん前に、お前とおりゃあ、どっちが逆立ちがうまいか競争しゅうや、競争したらとってんいいと言うち、逆立ちゅう二度させるんじゅ。そげえすると、河童ん頭ん皿ん水いこぼれち河童い う失う。そげえなったらお前ぃ勝つこたあまちげえねぇ。)と、いうち聞かする。さらにつけ加えち「もし、お前ぃ逆立ちゅうするぬう忘るるとお前は投げころさるるんぞ。そしち川んなかまじ引きずりこまれち ん巣まじ抜かれちしまうんぞ」と、きつう注意しよったと言うことじゃ。

 

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